バカは多読をやめろ

はじめに

前回の記事を書いて大いに反省しまして。

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というのも、自分のためになるだろうと思って本を読んでいるのに、いざ思考を進めると本で得た知識を全く活用できていないことに気がついたから。前回は最終的に本を切っ掛けにして思索出来たけれど、その切っ掛けにたどり着くまでに相当な時間を費やしてしまった。ここが問題。読書活動で得られた知識は、記憶の引き出しにしまわれたまま取り出されずにいる。引き出しにしまわれているのかさえ怪しい。これは、ぼくの読書とは、時間の無駄ではないのか。というか、ぼくはバカじゃないのか。

今回はこの問題について一冊取り上げて自己を省みようと思うのだが、一つだけ前置きを。

読書には二種類あると考える。それが<娯楽のための読書>と<思索のための読書>だ。ぼくはいちおう趣味と呼べる程度には本に親しんでいるけれど、その内だいたい7割は大衆小説だ。触れる書物の7割が大衆小説ということは、ぼくの読書活動の7割は<娯楽のための読書>だと言える。残る3割が新書や自己啓発書などで、つまり<思索のための読書>である。そして今回、ぼくが問題として取り上げるのは<思索のための読書>についてだ。

では本題へ入ろう。



ショーペンハウアー著『読書について』

<思索のための読書>について考えるにあたって、一冊参考にしたい本がある。それがドイツの哲学者、ショーペンハウアーの書いた『読書について』だ。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 これがまたとんでもなく意識の高い本で、なんせ「世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人」を目指すべく書かれているのね。全体を通して高圧的でかなり説教臭い上にところどころ愚痴めいたものまで入ってくるので、読みながらだんだんと気が滅入ってくる。だけどそのぶん、軽妙な比喩と様々な教えが詰め込まれた興味深い本だ。そんな同書の基本姿勢を一言で表したのが次の言葉。

読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない。

光文社古典新訳文庫『読書について』より

これはつまり、読書をしている間は知識が入ってくるので頭が良くなった気になるけど、その知識を咀嚼して自分の物にしないと意味がないですよ、ということ。ショーペンハウアーは本書でこのことについて言葉を変えて何度も言及してくる。同様に、多読についても次のように述べている。

重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ

光文社古典新訳文庫『読書について』より

ここだけ切り抜くとまるで「本を読むな!」と言ってるように聞こえるけど、そういうことではなく、本書は読書を思索の切っ掛けとして捉えるものだ。つまり<思索のための読書>だ。そして、多読はそれを阻害するということだ。言ってみれば当たり前のことではあるけれど、これを意識できている人は意外と少ないのではないだろうか?だからこそこの様な警句が存在するわけで。そして言うまでもなく、ぼくは多読により思考停止しているバカである。

ここで一つ注釈が必要になる。上記のとおりショーペンハウアーは多読を嫌悪しているけれど、多読により学者や物知りにはなれるとは言っている。つまり知識そのものは記憶できると言っているのだ。彼が目指しているのはそこではなく、書物から得られた知識を自分の中で昇華し、知識のその先にあるなんらかの真実を読みとるところにある。彼は哲学者であるからこの姿勢は当然と言えるが、ぼくのようなバカが目指すべきはもっとレベルの低い「バカからの脱却」である。

バカからの脱却、知識を「実践」する

そもそもの出発点に戻ると、今回ぼくが問題として挙げているのは「本で得た知識をうまく活用できていない」ところにある。ショーペンハウアーが罵倒するところの学者以下ってことだ。実際ただの会社員だしな。では、知識をうまく活用するにはどうするべきか?これはもう月並みな言葉になるけど、実践するしかないんじゃないかと思う。では、実践とはなにか。

言葉どおりの意味なら実践とはズバリ実行することだ。しかし知識を実践するには手順があると考える。以下に箇条書きで示そう

  1. 知識を「覚える」こと
  2. 覚えた仮説(知識)を「検証」すること
  3. 検証した結果を「反復」すること

以上がぼくの考える「実践」である。一つずつ解説していこう。

①知識を「覚える」こと

物事を覚えるにはよほどの記憶能力を持っていない限り、本を読むだけでは難しい。ここでも例によってショーペンハウアーを引用する。

考えがいま頭の中にあるということは、恋人が目の前にいるようなものだ。(中略)だが「去る者は日々に疎し」だ。どんなにすばらしい考えも、書きとめておかないと、忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。恋人も結婚でつなぎとめておかないと、永遠に去ってしまうおそれがある。

光文社古典新訳文庫『読書について』より

ノートにメモする、単純な話だ。これは忘れないための警句だが、忘れないとは覚えることでもある。そしてこれが大事なところだが、この段階では知識はただの仮説でしかなく、未だ漠然としたままの状態だ。

②覚えた仮説(知識)を「検証」すること

これは前回の記事を例にすると、思索がうまくいかないという問題に対して「問いの設定自体が悪い」という仮説(知識)を当てはめてみた。その結果、思索を進めることができた。これは仮説の有用性が証明されたということだ。この手順を経て初めて知識は実体を帯びてくる。実感すると言ってもいいだろう。

③検証した結果を「反復」すること

②で仮説が証明されたので、今度はその知識を何度も反復する。存分に活用していくのだ。そうすることで本から得た知識が自分の中に根ざし、新たな発想の糧となる。そして三つの手順の中でも、とりわけこの「反復」の行程が重要だと思われる。なぜなら覚えるためにノートにメモしても、仮説を証明するために検証しても、それら一度きりではやはり忘れてしまうからだ。スポーツが練習という反復で型を体に定着させるように、知識も反復することで頭に定着する。

バカは考えないからバカなのだ

以上が「実践」の内訳だ。そしてこれはまるまる「思索」と言い換えることができるのではないだろうか。つまり<思索のための読書>には思索が必要なのである。本を読むだけでは思索にならない、ショーペンハウアーの言うとおりだね。これをバカに向けて言い直すと「考えないからバカなのだ」ということになる。

これが今回の結論。ぼくは今、大きな脱力感とともに謎の申し訳なさでいっぱいなのです。

おわりに

今回の結論、読書を趣味としている人の中には耳が痛い人もいるんじゃないだろうか。「自分のためになるだろうと思って本を読んでいる」ぼくは、例えるなら「穴の空いたリュックに非常食を詰めている人」みたいだ。

多読は思索の妨げになる。ならば読書量を減らして思索の時間を増やすしかない。バカが嫌なら足りない脳みそで考えるしかない。

以上を踏まえて表題に付け加えるとこうなる。

「バカは多読をやめろ。その代わり少ない本から得た知識で考えろ」

それでは。

改めて、めんどくせえ(思考編)

最近、自分について色々考える。将来のこととか、これまでのこととか、能力だとか、人間関係だとか。物事を考えるのが苦手だから、そのようなことを思い浮かべているとだんだん頭が痛くなってくる。脳がめんどくせえと言ってる。考えるのやめろと痛みで実力行使してくる。

めんどくさいんですよ。

実際頭痛いのでそういった諸々を考えるのをやめるのだけど、何も考えないから楽なのかというと意外とそうでもなくて。今度は「これでいいのか?」という心の声が迫ってきて、「考えようとする自分」と「考えないようにする自分」の板挟みにあうことになる。めんどくさいね。何度でも言いたい。めんどくせえ。

そうやってめんどいめんどい言ってると、はて、どうして自分はこんなにめんどくさがってるのだろうか?という疑問がぽつりと沸いてくる。長年その疑問を抱えていたのだけど、やっぱりめんどくさいので考えないようにしていた。

つい先ほども「考えようとする自分」と「考えないようにする自分」の板挟みにあって、いい加減しんどいので何故めんどくさがってるのか考えることにしたのね。うんうんと唸っていても頭が痛くなるので、ぼや~っとファミレスで一時間ほど天井を見つめていると、一つ足がかりになりそうなワードを思い出した。それが先日読んだ『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』という本の一節。同書の欲望についての議論で、予防医学研究者の石川善樹さんがこの様なことを言っている。

自分って何がしたいんだっけ、と考えて何も浮かばないとき、だいたい「問いの設定自体が悪い」可能性がある。僕ら科学者はアイデアが浮かばないとき、だいたい問いの設定が悪いって考えるんです。

これ。問いが悪い。

では、「問いの設定自体が悪い」とはどういうことなのだろうかと考えると、これは「問いが抽象的である」状態、あるいは「出発点が間違ってる」状態と言い換えられるはずだ。

順序立ててみる。まず第一に、考えるのがめんどくさいのは「問いの設定自体が悪い」から。問いが悪いとはつまり「問いが抽象的」だから。であれば、「具体的な問い」を見つけられればめんどくささは解消するはずである。「問い」を「出発点」に置き換えると、冒頭で述べた「自分について考える」という出発点はやはり曖昧だ。将来のこととか、これまでのこととか、能力だとか、人間関係だとか。全部漠然としている。遠すぎる。これらの問いに少しだけ輪郭を与えてやると、例えば、フリーランスで生きていく方法だとか、これまでの失敗の原因だとか、自分の得手不得手だとか、人とうまく話すには、みたいな問いになる。まだ少し抽象的だけど、ずいぶんマシになったんじゃないだろうか。

ここまで書いてみて思うのが、今まで自分が「考えること」だと思っていたのは、ただ単に言葉を「思い浮かべていた」だけなんじゃないかということだ。そう思うとスラムダンクの三井ばりに猛省してしまう。

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いやでも、考えるのって難しくないですか。そんなことないですか。

先ほど出てきた石川さんの発言には続きがあって、それが以下。

問い――つまり考えるべき、振り返るべきなのは、「自分の感情」だと気づきました。疲れてるなら、何に対する疲れなんだろうとか。このイライラは何なんだろうとか。そこから考え始めて、「自分と向き合う力」を身につけていくしかない。

これこそ「抽象的な問い」を「具体的な問い」に変えていく出発点ですね。「自分と向き合う力」は「自分の感情」から辿っていくと。

今まで生きてきて散々めんどいめんどい言い散らかしたけど、こうやって振り返ってみると「めんどくさくしてるの自分じゃね?」という新たな疑問というか発見がある。自分で自分の足を引っ張っていることに気がついたのだ。あたしって、ほんとバカ。

バカはバカでもバカなりにバカな理由を探れた気がするので今回はこのへんで。

銀杏BOYZとクリープハイプと魂の話

暑苦しい人って鬱陶しくないですか。

熱血ぽいノリとか体育会系のテンションってどうも苦手だ。あいつら声でかくて怖いし。上下関係にうるさいし。松岡修造ばりに「熱くなれよ!」と言われたら「熱さを強要するなよ」と返したくなる。ロックおじさんにも結構そういう人がいて、なにかにつけて「魂」がどうのとか抜かすので困る。魂ってなんだ。

ちなみにこの「魂」は最近の若者の間で「エモい」とか「バイブス」と言った言葉にとって代わっていて、中身があるようでまるでない感じが最高にダサい。便利なのでよく使ってます。

というわけで、今回は音楽の話。

先月末、銀杏BOYZがシングルを出したんですよ。どうやら三ヶ月連続リリースの第三弾らしいのだけど、このバンドはずっと活動休止していると思いこんでいたから気がついた時は驚いた。情弱だね。そこで一通り最近のシングルをSpotifyで聴いてみたところ、どれも良かった。峯田節とも言えるド直球かつ下世話なワードと元々持っていたロマンチックな要素が良い案配に混ざり合って、いずれもシングルとして申し分ない出来。

ところで銀杏BOYZってあんまり好きじゃないのね。最初の話に戻るけど、峯田ってめっちゃ暑苦しいじゃん?根性丸出しな歌と下品な歌詞がパンクなサウンドに乗って頭悪い体育会系の権化みたいなところがある。そんなあいつにも良いところがあって、それが情に厚くて意外とセンチメンタルなところだ。知らんけど。

ここから本題。

最新シングル「恋は永遠」のカップリングは「二十九、三十」という曲なんだけど、この曲知ってますか?実はこれ、クリープハイプのカバーなのね。このカバーが超絶良い。マジで良い。おったまげた。

「二十九、三十」は尾崎世界観という普段は遠回しかつ的確な言葉で相手を刺しにくる性格の悪いアーティストが、なんとか恥を忍んで本音を歌にしてみたような曲で、平たく言うとクリープハイプの楽曲の中でも屈指の名曲。そんなエモみ溢れる曲を峯田が歌うとどうなるか。

My Bloody Valentineばりの轟音ギターと峯田の叫びが合わさって、これはもう最強まである。もしも歌に説得力というものがあるのだとしたら、「二十九、三十」での峯田の歌には間違いなく説得力がある。普段は「魂(笑)」とか抜かしてる僕ですら号泣する程度には魂感じちゃうよね。バイブスやべぇ。

いや、冗談めかしたけど本当に参った。峯田のことは「良い曲作るけどなんか苦手な人」くらいに思っていたのが、尾崎世界観の曲を借りることでこんなにも心動かされるとは思わなかった。実際、楽曲のポテンシャルを限界まで引き出しているような印象を受けて、まさに名カバーと賞賛せざるをえない。

尾崎世界観の著書「苦汁100%」で両者の交流については知っていて、どうやら尾崎は峯田のことをかなり尊敬している様子。それに対して峯田もレスポンスしようとしている様も多少書かれていて、そういったやり取りからこのカバーが生まれていったのかなと想像している。すると先輩後輩の友情みたいなバックグラウンドも見えてきて、尚更この曲が特別なもののように感じられるから始末に負えない。結局僕もこういった情に弱いセンチメンタルな日本人なのだ。恥ずかしい。峯田も心なしか自作曲より伸び伸びと歌っているように感じる、なんて流石に言い過ぎですかね。

ここ最近は「天使の3P!」の主題歌と「けものフレンズ」の主題歌を延々とリピートしながら熱唱してるオタク野郎な僕だけど、久々に「ロックっていいな」と思える良い出会いだった。近い内にアルバムも出すだろうし、今度はちゃんと聴こう。

 

本家のMV。名曲です。


クリープハイプ 「二十九、三十」MUSIC VIDEO

恋は永遠(初回生産盤)

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苦汁100%

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結婚記念日と、僕の未来と。

沖縄から両親がやってきた。

30年目の結婚記念日を祝して旅行に来たらしいのだが、今回の旅にはなぜか僕も含まれている。有給をとって、明日から三日間3人で旅行するのだ。どうせなら夫婦水入らずで旅行すればいいのに……と思わなくもないのだが、四六時中一緒にいる人間だけでなく、なかなか里帰りしない息子も加えて楽しもうという魂胆なのだろう。というわけなので、これも親孝行だと諦めることにしている。いや、結婚30年ということ自体はめでたいと思うけど。

実はこの文章を書いている時点で両親には会えていない。仕事の空き時間を利用して書いているので、帰宅後にようやくご対面という予定なのだけれど、どうにも帰るのが億劫なのだ。正直言って帰りたくない。なぜかというと、それはこのあと両親が僕の人生設計について聴取するというイベントが待っているからである。マジで逃げ出したい。

自分の今後について考える作業というのは恐ろしい。

あてのない未来について想いをはせるのは、常に希望と絶望が入り乱れる。その希望の比率を僅かにでも上げるために工夫し、そして行動へと移すのだ。行き当たりばったりの人生を送ってきた僕はこの作業をずっと怠ってきたので、今後の展望にマジであてがない。もちろん、多少の考えはあるけれども、それはこのブログで散々書いてきたように退職という手順をとる。今の安定した立場を自ら棄てることになるのだから、これは親にとって見過ごせないだろう。

いい大人が親に叱られるのが怖いのか?という声が上がるかもしれないが、まぁ怖いよね。親父声でかいし。正確なところをいうと、そもそも親と腹を割って話したことがほとんどないので、どうなるか分からなくて不安なのだ。うちの両親は共働きで、更に父親はずっと単身赴任だったものだから親と話す機会があまりなかった。看護婦の母親はいつも疲れて寝ていたし、営業職の父親は家に帰ってきたかと思えば宴会を開いて酔っ払ってばかり。他人からの信頼は相当厚い様子だったけれど、家族間の交流は少ない家庭だった。決して仲が悪いわけではないんだけどね。

そんなこんなで僕は今、不安なのだ。先述したように親と話し合うことが僕の不安をあおる。だがそれ以上に、自分の未来を他人にプレゼンしなければならないのが恐ろしいのだ。物事を他人に説明するというのは、それを自分の中で消化する工程が必要になる。それを終えてない(そもそもしてない)のに他人へ説明せねばならないのだ。自分の未来を。それは強制的に未来へ目を向ける作業でもある。未来を見据えるのは、恐ろしい。そして、それに対してなんからの評価を下されるのはもっと恐ろしい。

あまり怖い怖いと言っていても埒が明かないので、両親に自分の考えを説明することで改めて脳内を整理できる、両親とディスカッションすることでより良い展望を見出すことができる、と思うようにする。そうしないとやってらんない。あー、でも、やだなーーーー。めんどくせえ。

うだうだと書いたけど、なんといってもせっかくの結婚記念日だ。これを良いものにしてやるのが息子としての僕の役割かなとも思う。なんとかイーカンジにプレゼンを終わらせて、あとはイーカンジに旅行を盛り上げよう。

では、これから帰宅します。

 

・おまけ
両親というワードから連想してママス&パパスの「California Dreamin'」を聴いてみたところ、今の自分にピッタリな曲だということが判明したので貼っておきます。いい曲だ……。

www.youtube.com

和訳

getdownonit.seesaa.net

改めて、めんどくせえ

なんもかんもめんどくせえ。
かったるい。つらい。やってられん。

いきなりネガティブなワードが並んでしまったけれど、大体の物事において僕はそう考えている。ブログ書くのめんどくせえ。好きな物事に興じている時でさえ「こんなことしてなにになるんだろう」という腐った考えが頭の片隅に鎮座しておられる。そんな虚無感が体中にこびりついて酷い臭いを放っている。これを「虚無臭」と呼びたい。

虚無臭はいたるところで嗅ぎ取れる。物事が上手くいかないとき。好きな事柄に飽きてしまったとき。仕事に追われているとき。お金がないとき。
そして、自分を認められないとき。

今回は自己肯定の話をしたいと思う。

恐らく僕は、他人と比べて自己肯定力が低い。自分に何ができるだろう?と考えたとき、思い当たることはさしてない。他人と比べて秀でてるところはなんだろう?と考えたとき、自分は誰よりも劣った人間だと感じてしまう。いやいやそんなはずがない、お前にだって良いところはあるよ、と誰かが言うのだけれど、決してそれを認めることができない。なぜその様に考えるのか?それは成功体験の乏しさに起因すると考える。

そもそものところ、僕は努力するのが嫌いだ。頑張るのはめんどくさい。

そんな自分でも一応頑張ったことは何回かあって、だけどどれも上手くいかなかった。それらの原因は自身の適正の見誤りであったり、努力の方向性を違えていたり、そもそも目標となるものを立てずに暴走していたりと、まぁいろいろある。ただでさえ努力するのが苦手なのに、何かを成功へ導くことさえ下手だとすれば、それはもう何をやっても無駄じゃないのか。いつの頃からかそんな考えが頭を支配するようになって、やがて僕は行動することをやめた。

そうなった人間は自分を責めることになる。なぜ上手くできないのかと、なぜ行動をやめてしまうのかと、失敗を経験に成功への道を見いだせるのではないのかと。けれども一度億劫になってしまえばその殻を破ることはなかなかできない。そうやって内に閉じこもってる間に自己否定の言葉だけが力を増して、やがてそれは虚無臭となって自分の部屋にまでたちこめだす。休日ともなれば布団からなかなか抜け出せない。虚無臭には空気清浄機でさえ効果はないから困ったものだ。

だんだん鬱陶しい文章になってきたのでこの辺で抑えておく。僕は悲劇のヒロインになりたいわけではない。

課題となるのは、どうすれば自己肯定できるのか、という点だ。

さきほど成功体験の乏しさが自己否定を招く、と書いた。であれば、成功体験を重ねればおのずと自己肯定力が身につくはずなのだ。そこで「何をもって成功とするか」という問題が浮上する。成功にも大小あって、僕のような人間は何かを成そうとするとき大きなところを目指そうとする。ようは基準となるハードルが高いのだ。そこでハードルを下げる術が必要となる。

ハードルが高い人というのは、言い換えれば想像力に乏しい人のことだ。

例えばロックスターを目指すA君がいるとしよう。
まずA君は目標達成のためにギターを手にした。となれば、当面の目標はギターを弾けるようになることのはずである。しかしA君はまず世紀の大名曲から作ろうとする。そんなの無理に決まってる。なぜこのようなことになってしまうのかというと、「ロックスターになる」という大目的しか目に入っておらず、そこに至るための小目的の存在に気づいていないからだ。物事には手順があるということを想像できていないのだ。

もしくは、A君は自分の芸名から考えるかもしれない。これは努力の方向性を見誤る典型的なパターンだ。確かに芸名は大事かもしらんけど、やるべきことはそこじゃないだろカス。そんなことを繰り返しているうちに、A君いつまで経ってもロックスターになれないことに嫌気が差して自己否定に陥るのである。こういうゴミカスのことを世間では「身の程知らず」と呼ぶ。

そう、想像力に乏しい人間とはつまるところ身の程知らずなのだ。

昔、会社の先輩に「先輩と比べて全然仕事ができない」と相談したら、先輩はこう言った。「お前より何年もキャリアのある俺と比べるのはおこがましいと思わないか」と。新米にベテランの仕事が出来るわけがないのである。身の程を知れというのはだいぶん強い説教だが、これはとても大事なことだ。今の自分に出来ること、目指すところをしっかり見据えて、少しずつ出来ることを増やす。そうやって実力をつけていくことで自己肯定力は養われていくのだと思う。そしてそれは一朝一夕で成し得ることではなくて、日々の積み重ねが大事なのだ。めんどくせえ……。かったるいけど、しようがない。そういうものなのだ。

毎日毎日めんどくせえ、やってらんねえと思っているけれど、今のところの自分のチャレンジがこのブログだったりする。このブログで成し遂げたいのは、リアルな人付き合いにつなげることだ。特に、仕事を辞めた後の移住先と予定している沖縄での付き合いにつなげたい。そのための一番低いハードルとして、とりあえずなんでもいいから一記事書く、という目標を立てている。こんなとりとめのない暗い文章を誰が読むんだ??という気持ちはあるけど、これも自己紹介みたいなものかなと思うことにしている。考えにないことは書けないし、何もしないで布団でゴロゴロしてるよりはマシだろう。めんどくさいけど。
(少ないながら読者登録して頂いているかたもいらっしゃって、その方々には救われる想いです。ありがとうございます)

別の目的として思考の整理と文章の練習もある。これは割と有意義に感じていて楽しい。楽しいは正義。

断言するが、自己肯定の出来ない人間は不幸だ。
であるなら、少しでも幸せになるために種を蒔くのは決して悪いことではない。
まぁ、あまり期待せず、けれどちょびっと期待を胸に残して、ほどほどにがんばります。