改めて、めんどくせえ(思考編)

最近、自分について色々考える。将来のこととか、これまでのこととか、能力だとか、人間関係だとか。物事を考えるのが苦手だから、そのようなことを思い浮かべているとだんだん頭が痛くなってくる。脳がめんどくせえと言ってる。考えるのやめろと痛みで実力行使してくる。

めんどくさいんですよ。

実際頭痛いのでそういった諸々を考えるのをやめるのだけど、何も考えないから楽なのかというと意外とそうでもなくて。今度は「これでいいのか?」という心の声が迫ってきて、「考えようとする自分」と「考えないようにする自分」の板挟みにあうことになる。めんどくさいね。何度でも言いたい。めんどくせえ。

そうやってめんどいめんどい言ってると、はて、どうして自分はこんなにめんどくさがってるのだろうか?という疑問がぽつりと沸いてくる。長年その疑問を抱えていたのだけど、やっぱりめんどくさいので考えないようにしていた。

つい先ほども「考えようとする自分」と「考えないようにする自分」の板挟みにあって、いい加減しんどいので何故めんどくさがってるのか考えることにしたのね。うんうんと唸っていても頭が痛くなるので、ぼや~っとファミレスで一時間ほど天井を見つめていると、一つ足がかりになりそうなワードを思い出した。それが先日読んだ『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』という本の一節。同書の欲望についての議論で、予防医学研究者の石川善樹さんがこの様なことを言っている。

自分って何がしたいんだっけ、と考えて何も浮かばないとき、だいたい「問いの設定自体が悪い」可能性がある。僕ら科学者はアイデアが浮かばないとき、だいたい問いの設定が悪いって考えるんです。

これ。問いが悪い。

では、「問いの設定自体が悪い」とはどういうことなのだろうかと考えると、これは「問いが抽象的である」状態、あるいは「出発点が間違ってる」状態と言い換えられるはずだ。

順序立ててみる。まず第一に、考えるのがめんどくさいのは「問いの設定自体が悪い」から。問いが悪いとはつまり「問いが抽象的」だから。であれば、「具体的な問い」を見つけられればめんどくささは解消するはずである。「問い」を「出発点」に置き換えると、冒頭で述べた「自分について考える」という出発点はやはり曖昧だ。将来のこととか、これまでのこととか、能力だとか、人間関係だとか。全部漠然としている。遠すぎる。これらの問いに少しだけ輪郭を与えてやると、例えば、フリーランスで生きていく方法だとか、これまでの失敗の原因だとか、自分の得手不得手だとか、人とうまく話すには、みたいな問いになる。まだ少し抽象的だけど、ずいぶんマシになったんじゃないだろうか。

ここまで書いてみて思うのが、今まで自分が「考えること」だと思っていたのは、ただ単に言葉を「思い浮かべていた」だけなんじゃないかということだ。そう思うとスラムダンクの三井ばりに猛省してしまう。

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いやでも、考えるのって難しくないですか。そんなことないですか。

先ほど出てきた石川さんの発言には続きがあって、それが以下。

問い――つまり考えるべき、振り返るべきなのは、「自分の感情」だと気づきました。疲れてるなら、何に対する疲れなんだろうとか。このイライラは何なんだろうとか。そこから考え始めて、「自分と向き合う力」を身につけていくしかない。

これこそ「抽象的な問い」を「具体的な問い」に変えていく出発点ですね。「自分と向き合う力」は「自分の感情」から辿っていくと。

今まで生きてきて散々めんどいめんどい言い散らかしたけど、こうやって振り返ってみると「めんどくさくしてるの自分じゃね?」という新たな疑問というか発見がある。自分で自分の足を引っ張っていることに気がついたのだ。あたしって、ほんとバカ。

バカはバカでもバカなりにバカな理由を探れた気がするので今回はこのへんで。